死者の走馬灯 それは母、松井須磨子と子のオレが開発した映画言語である

死者の走馬灯とは、現代人の死体(労働者、消費者、納税者、信者など)から、鎖のように絡みつく重い真実を抉り出し、白日の下に晒すための映画言語である。われわれはいったいどのような危機に直面しているのか?死を見ることで、死の中にその答え(生)を見出し、その答え(生)が正しいのか間違っているのか「心」「魂」で判断すること。だが、その先にあるのは必ず、文明(人喰いが作った文明)に対する反逆である。
 
子供は親に似る。同様に、被支配者は支配者(人喰い)に似る。支配者(人喰い)は奴隷を徴用する。そのため、被支配者も奴隷を徴用するようになるのだ。ただし、支配者は実際に奴隷を徴用するが、それができない被支配者は自分の脳内に奴隷を作り上げ、頭の中だけで意のままに徴用するのだ・・・・
これが人類の危機でなくしていったい何だというのか?われわれは、奴隷であることを自覚していない奴隷なのだ!奴隷と呼ばれていない奴隷なのだ!奴隷だからこそ、相手を奴隷のようにしか扱えないのだ!それが全人類が奴隷だという何よりの証拠だ!筆者は死者の走馬灯の原案を作り、一流のクリエイターたちに原案を提供することでその事実を暴いてきた。

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ヒッチコックの「マーニー」

「真」の芸術家は死に興味をもつ。死とは生きている間、何人もその謎を知ることが出来ないものだからだ。この死者の走馬灯が流行り出したのはアントニオーニの「情事」が出た頃だからだ。リンチの「ブルーベルベット」以降の映画もみな死者の走馬灯である。

前作の「鳥」同様、この「マーニー」も紛れもない死者の走馬灯である。じつは、この映画の主人公はペギー・ニコルソンという女性であり、大きな電車事故で死んだ。映画を良く見ていれば分かることだが。

この映画では色が非常に重要であり、ヒッチコックは色でいろいろなことを語っている。まず、緑。これは「墓地(アメリカの)」を表現している。つまり既に埋葬されている。「死んでいる」のだ。

マーニーが母に会うシーンでは、マーニーはグリーンの服を着ている。これは既に彼女が死んでいることを示しているが、母は青い服を着、黄色い冷蔵庫の前に立っている。青と黄で緑。つまり、両者は同一人物だという示唆がされている。両者は、母娘ではないのだ。死をきっかけに時間軸を喪失した体内で記憶のパラドックスが発生している。
マーニーと母。両者はじつは、老いた自分と、若き日の自分なのだ。更に、ジェシーという名の少女は少女時代の死者自身である。

マーニーは、赤い色にショックを受けるという設定だが、一般向けの説明として、少女時代に自分に触った男を鉄の棒で殴り殺したため、赤がトラウマになったということになっている。
だが、マーニーが赤い色を怖がるのは、実際には「死者が死を認めたくない」のだ。自分が既に死んでいることを認めたくない。だから血を連想させる赤を見るとマーニーはショックを受けるのだ。

マーニーは泥棒という設定だが、これは「鳥」と同じで、老いた自分をまったく省みない世間に対する復讐心を示している。そして、マーニーがショーン・コネリー扮するマークと出会う直前、彼女は小脇に新聞を抱えているが・・・・そこには「Crash Kills 118」と書いてある。これは非常に重要なヒントである。ヒッチコックからの大きなヒントだ。

マークの正体。それは死者が生前、若い頃から何度も妄想の中で作り上げた理想の男性像である。死者は誰かに自分を救って欲しいと考えていた。マークはその願望の具現化である。妄想の中で生まれたマークは、だが、宿主である死者が死して尚、死者に夢を見せようとする・・・・

マークとマーニーの残業シーンでは、雷鳴が轟く。この雷鳴は「電車事故」の音である。だからマーニーは怖がっている。稲光は赤いが、これは事故でぶちまけられた犠牲者たちの血である。そして窓を突き破る木の枝。これは、事故時の身体損壊を表現している。

死の思い出である!死の思い出ほど厭なものはない。ヒッチコックは、その未知の表現に挑戦しているのだ。

競馬場でのシーンでは、ある男がマーニーに話しかける。「あなたはペギー・ニコルソンでしょう?」。これは死者の名前なのだ。また、競馬場でのシーンでは赤い水玉模様のシャツを着るジョッキーを見てマーニーはショックを受ける。

赤い水玉は穴だらけの死体である・・・・

マーニーは、遂にマークの会社の金庫から金を盗もうとする。マークの会社の金庫は緑だ。金庫はマーニーの身体の一部なのだ。
それにしても、このシーンが非常におもしろい。このシーンでは、生前の死者が一度だけ姿を現すのだ!画面は2つに分けられているが、あの老いた掃除婦(死者の生前の姿)は黙々と床にモップをかけながら、そのじつ、心の中では「金庫の金を盗んでみたい」と妄想しているのだ。このシーンはそういう風に見えるように意図して構成されている。

マーニーがマークに捕まった直後の車内のシーンもおもしろい。走る車。マークの側からは住宅街が見えるが、マーニーの側には山、或いは山林が見える。これも明らかに意図されている。「この人は死んでいます」ということを観客に知らせようとするヒッチコックの工夫なのだ。

死者の罪。それは「まだ生きている」とウソをつくことか・・・・緑色の服。緑色のソファ。緑色のプールの水。緑の金庫。緑は墓地(アメリカの場合)。死者は既に墓地に埋葬されている・・・・

そして一見賑やかに見えるあの狩りのシーン。あのシーンは実際には非常に不気味で恐ろしいものだ。狩りの参加者たちを先導(電車の運転手)する数人の人物はみな赤い服を着ている。これは・・・・彼らが血塗れだということを示している。つまりあの場にいた狩りの参加者たちの正体は、事故で死んだ118人の乗客たちなのだ!

マーニーは何か厭な予感に襲われ、その場を逃げ出す。怪我をする馬=Crashした電車。

ラストシーン。死者は、少女の頃に自分に触った男を殺したせいで赤が怖いとウソをついた。玄関を出ると、道路で遊んでいた少女たちが一斉にマーニーを見る。死者がウソをついたからだ・・・・

少女たちは歌う。Call for the doctor, Call for the nurse, Call for the lady with an Alligator purse・・・・
お医者さんを呼んであげましょう、看護婦さんも呼んであげましょう、ワニ皮の財布を持つ女の人のために・・・・この歌は、ラストを締め括るのに非常に重要だが、訳されていない。残念。

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キューブリックの「ロリータ」
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ナボコフの原作も同様なのか読んでいないので不明だが、キューブリックの「ロリータ」を一見して、やはり死者の走馬灯だった。「ロリータ」では映画の外で老いた男性が死んだ。そして、死によって時間軸を喪失した彼の体内で記憶のパラドックスが起きたのだ。
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ハンバート・ハンバートは、死んだ老人の中年時代の姿である。そして、宿の女主人シャーロットは死んだ老人の妻である。つまり、2人は実際の記憶の中の人物である。ハンバートがイギリス訛りなのは、夫婦の間に隔たりがあったことを示している。おまけに死によって2人(というかハンバート)は自分たちが夫婦だということを忘れている。おもしろい点であるが。
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ハンバート・ハンバートの名はウィリアム・ウィルソンのようなものだ。死んだ老人の本名はシャーロットが口にしていたが忘れてしまったw
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ロリータは、死んだ老人が晩年、妄想の中で育てたあらゆる理想・希望を具現化した人物である。ロリータの存在は、老人の心が妻から離れていたことを示しているが、老人は、死ぬまで妄想の中に浸っていたのだろう。
また、老人は同時に「こうなりたい」という理想の人物を作り上げていた。それがTVにも出る知的な有名人クイルティである。若い女性に大人気だ!2人は実在しない、ハンバートの脳内にしか存在していない幻影である。
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ハンバートはロリータをひとめ見て心を奪われる。それもそのはずだ。ロリータは、自分のあらゆる理想を集めて作られた人物だからだ。ロリータとハンバートの出会いから、ロリータは死んだ老人が40代の頃に既に脳内に住んでいたことが分かる。更に、老人は生前、妄想の中では必ず人気者(クイルティ)に変身し、ロリータを我が物にしていた。
ただ、死を契機に自分の妄想の中で作り上げたロリータが自分(宿主)からの解放を望むようになる。死後、妄想の中で作り上げた人物たち(ロリータ、クイルティ)は次々に独立し、自分の意に反して動くようになった。死者は、死によって妄想さえ自由にできなくなった。
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妄想の中で作り上げた人物は奴隷と同じである。いつでも自分の意のままに操ることができる。しかし、その奴隷たちは宿主の死によって自由になり、宿主から離れていった・・・・
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ロリータは、死んだ老人の脳内では性奴隷だった。ロリータは老人の意のままに何でもした。そして「ロリータ」では、妄想の中で作られた奴隷(ロリータ、クイルティ)と奴隷を作った宿主(ハンバート)の対立が描かれている。
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現代人(労働者、消費者、納税者、信者など)はみな一様に実際の記憶に乏しい。寺山修司の言葉を借りれば、現代人は「身体がまだ死んでいない死体」なのだ。夢を見ることでしか生きていられない。それはなぜなのか?なぜ人々は夢を見ることしかできないのか?
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アントニオーニの映画を見た際、脳を使わずに安易に「愛の不毛」と呼ばないようにw アントニオーニの映画もほとんどが死者の走馬灯だ。作った本人が言ってるんだから間違いないわ。これらはまたおいおい解説していきたい。
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ただ、筆者はこれらの作品を自分で作ったことは忘れているため、これらの難解な作品群の意味・真相を「解明した」「理解した」というよりは「思い出した」と言ったほうが正しい。ヒッチコックの「マーニー」も紛れもない純粋な死者の走馬灯だったが、人喰いは死者の走馬灯の存在に気づき、ヒッチコックに死者の走馬灯を作ることを禁止した。
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川端康成の「雪国」

「雪国」もやはり死者の走馬灯だった。

川端の「雪国」は、じつは筆者の母松井須磨子の原案である。松井須磨子が原案を発案し、川端(共作者)は文章を担当した。キューブリックが映画化したナボコフの「ロリータ」も死者の走馬灯だったが、「雪国」の構成はキューブリックの「ロリータ」に良く似ている。「ロリータ」も松井須磨子が原案を発案したのだろうか?

つまり「雪国」は、しがない男の妄想をメインにした走馬灯である。この男の記憶には実際の記憶はひとつもない。しかも、この男性は既に死んでおり、この世の者ではない。死んだ男の名は行男(ゆきお)だ。「雪国」は、行男(ゆきお)の心の中の世界である。「雪国」の凍てついて寒々しい世界。それは行男の誰にも注目されない、惨めな人生を表現している。行男は東京在住だったようだが、彼は、しがない労働者として人生を終えたのだろう。

映画公開当時、日本は高度経済成長期の只中にあり、日本全土で道路の舗装、住宅建設、高速道路建設、大工場の建設、高層ビル建設などで日雇い労働者は東京でも街中に溢れていたはずだ。つまり松井須磨子の視線はある程度、時代に則している。松井須磨子はそんな最底辺にいて高度経済成長を支えた声無き単純肉体労働者の内面を見ている。

日雇い労働者だったと考えられる「行男(ゆきお)」は、自分の理想の女性として妄想の中で「駒子」を育て上げた。そうして辛い単純労働に耐えながら毎日の単調な日々を生きていた。同時に、行男が駒子を我が物にする時には理想の男性に変身していた。その男性が島村である。島村の名は「孤独」を意味している。島村は翻訳家として頭ひとつで生計を立てており、女(駒子)にもモテている。これが日雇い労働者だった行男(ゆきお)の理想の人生だった。「翻訳家」という職業も何かしらの意味を持っているだろう。

だが、「ロリータ」のハンバート・ハンバートと同様、行男(ゆきお)も死んでから、奴隷たちが自分の手から離れて勝手に動くようになった。妄想の中で作り上げた人物。それは紛れもない奴隷であるが、駒子は妄想の中では行男の性奴隷だった。しかし、行男の死と共に駒子は行男の支配から解放され、島村と勝手に恋愛までするようになった。そこで、行男は死後、自分の自由になる性奴隷として「葉子」を作り上げた。そのため、葉子は行男に忠実だった。

「お師匠さんは駒子にダンナを取らせていた」これは、行男が妄想の中で自由に姿を変えて駒子を我が物にしていたことを意味する。また、島村が「明日帰ろうと思う」と駒子に告げると火事が起きる。映画をかける小屋で火事が起きたという設定だが、「映画」は「夢」である。夢を見せる建物が燃えて消えてしまう。これは非常に詩的な表現である。それにしても、こういうことを母松井須磨子が始めたとはな・・・

もうひとつ、行灯が「田口」に見える。母松井須磨子とシカゴの下町で暮らしていた筆者は田口家に里子に出されたが、それが1964年~1966年のことかもしれない。その印として「田口」と読める行灯が準備された?また、手塚の「ザ・クレーター」の一遍「風穴」では「66」と書かれたレーシングカーが登場する。その辺りで筆者は田口家に里子に出されたことがわかる。そうなると、筆者は42年間シカゴに住んでいたことになる。

松井須磨子は、筆者がジョン・レノンと「マザー」を共作した時点で亡くなっていたのかと考えていた。だが、そうではなく「マザー」は、松井須磨子が筆者を里子に出したことに対する恨み節だったようだw 

松井須磨子はフリッツ・ラングの変わり身だったが、その関係でドイツに縁があるようだ。というわけで、松井須磨子はフリッツ・ラングの後にファスビンダーを変わり身にしたと考えている。松井須磨子はフリッツ・ラングのあとはファスビンダーに原案を提供し、遺作がジョルジオ・モロダー版「メトロポリス」かもしれないと考えた。そうなると、松井須磨子は98歳くらいまで生きたと考えられる。

その1970年に生まれたという設定を与えられるまでの35年間、筆者は「生まれていない」或いは「この世に存在していない」ことにされていた。韓国女優の子が筆者のことを「悲しい瞳の王子さま」と呼んだが、筆者のまなこに悲しみがあるのだとすれば、その時代に培われたものかもしれない。

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アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」

「太陽はひとりぼっち」は、数あるアントニオーニの映画の中でも純粋に死者の走馬灯の形式を採っている。しかも完成度が高い。「ツインピークス」は女の死体だったが、「太陽はひとりぼっち」の死体は男の死体である。老齢の男性が映画の外で死んだ。それは誰か?

この老人の死と同時に映画が始まる。老人が脳内で育てた理想の女性がヴィットリアであるが、ヴィットリアはロリータと同様に宿主の死を契機に宿主から解放されたいと願う。あの長い「間」は自由になりたいと願う、死者の脳内に生まれた性奴隷の葛藤そのものである。そして彼女がカーテンを開けると給水塔が見えるが、あれは勃起した男根を意味している。つまり、男性が死んでいるのだ。この映画の舞台は、男の死体である。

死者は街へ出ると記憶の中の人々とすれ違う。幼い少年、乳母車を押す主婦。すべては死者の思い出である。「ロストハイウェイ」では「ディック・ロラント」が死んだが、この映画では「ヴィットロッティ氏」という人物が死んでいる。証券取引所で一分間の黙祷が捧げられている。この映画で取り上げられた死者の名はヴィットロッティだ。われわれはヴィットロッティ氏の死体の中を散策し、彼が今まで何を考えてきたのか、そして死して尚、何を考えているのかを知るのだ。

ドロンは、死者が若い時に作った理想の男性像である。死者は「こんな風になりたい」と夢見ていた。ヴィットロッティ氏は考えつく限りのすべてのかっこいい要素をブチ込んでドロンを作った。ドロンは二枚目で証券場でバリバリ働いている。証券取引所では一見して何が起きているかわからないが、ヴィットロッティ氏の変わり身であるドロンはそのすべてを把握しているようだ。市場のすべてを把握し、しかもたくさんの人々の命運までをも一手に握っている。死者は、証券取引市場と株に投資する人々すべての人生を操作している。死者は「そんな風になりたい」という夢を見ていたのだ・・・・

生前の死者の姿が一度出てくる。5000万をフイにした初老男性である。あれが死んだヴィットロッティ氏なのだが、ヴィットリアは彼のことを知らないようだ。ヴィットリアは彼の頭の中で作られた性奴隷だ。なのになぜ彼女は自分を作った男を知らないのか?これは生前の死者が常に別人に姿を変えて脳内でヴィットリアを抱いていたということを意味している。死者は生前、現実の自分を嫌悪し、頭の中ではいつも理想の男性像に変身していたのだ。

死者はいくつもの理想の男性像を作っていたと考えられるが、映画の中では2体しか出てこない。それがリカルドとドロンだ。冒頭でヴィットリアはリカルドと別れた。死を契機に宿主の支配から自由になりたかったからだ。ヴィットリアがドロンに身体を許さないのはそういうわけだ。リカルドは宿主の仮の姿であるが、ドロンも同じ宿主が別人に姿を変えたものである。ヴィットロッティ氏の頭の中で生まれたヴィットリア。だが、彼女はヴィットロッティ氏の変わり身に性奴隷として抱かれるのはもうウンザリなのだ。

町を歩くと何度も馬車、乳母車の女性と出会う。馬は走馬灯であり、乳母車の女性は思い出の中の母の姿である。そして建物は死体である。ラスト、アントニオーニは「街自体」を死体に比定している。たくさんの死体が並んでいる。不気味な音楽が鳴っている。いったい誰が死んだのか?ヒントは株式の暴落だ・・・・

ということで「太陽はひとりぼっち」の意味がやっと分かった。いや、「太陽はひとりぼっち」の意味をやっと思い出したw なにしろ自分が作ったんだからな。

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川端康成の「伊豆の踊り子」

「伊豆の踊り子」も当然、死者の走馬灯である。死んだのは茶屋のおじいさんだ。彼は痛風で動けないという設定だ。あの茶屋でのシーンは非常におもしろい。老人が自分が脳内で作った人々が死後の自分のもとを訪れたシーンである。これぞシュルレアリズムの醍醐味だ。死んだばかりの彼は、死を悲しんでいた。だから雨が降っていた。しかし、自分が作った性奴隷たち(旅芸人の少女)が笑う声を聞くと機嫌が良くなり、雨は止んですぐに晴れた。生前、彼は常にそうして自分を慰めていた。

松井須磨子の発想の中では、あの老人は実際には既にこの世の者ではない。「伊豆の踊り子」の世界は、死んだおじいさんの記憶でできた世界である。ただ、彼もやはり実際の経験に乏しく、妄想ばかりしていた。妄想するから生きていられた。彼の記憶もやはり、自分勝手な妄想を基調にした記憶で占められていたのだ。

永い年月をかけ、老人は人知れず「こういう風になりたい」という理想の男性像と「こんな女性が好きだ」という理想の女性像を何体か作り上げていた。しかし、老人が死ぬと妄想の中で作り上げられた架空の人物たちはやはり宿主からの解放を願い、自由に動き始める。

川崎は「若くなりたい」「尊敬されたい」という老人の願望に根ざして作られ、薫は「若い子と付きあいたい」という老人の性的願望を下敷きにして作られた。一方、川崎は奥手であるが、これは老人が性愛と恋愛とは無関係な人物になりたいことを示している。パラドックス。老人は、一方で若い少女の身体を求めながら、一方では性本能に降り回されることに疲れているのだ。

男性の脳内で作られる女性は必ず性奴隷であるが、新しく作られた薫の他に先代の性奴隷がいた。それがおさきさんとおきよさんだ。松井須磨子は、死にかけた老人でさえ若い少女を欲しがっていることを指摘し、半ば呆れている。16歳のおきよさんは「死ぬ日まで客をとらされていた」という設定だが、客というのは姿を変えた死んだ老人である。

老人は、「死にそうな少女を犯したい」という変態的な願望を人知れず妄想の中で遂げていたわけだが、次代の性奴隷である薫はそれを目の当たりにしてショックを受ける。薫は、おきよさんに会った直後に川崎に会うが、薫は川崎を睨みつけた。薫が彼を睨んだのは、川崎が、おきよさんを犯し続けて廃人にまで追い詰めた老人のもうひとつの姿だったからだ。ただ、このような状況は現実には起こり得ず、松井須磨子のまなざしはあくまでもシュルレアリスムに徹していることがわかる。非常にスリリングだ。

「鳥屋さんが鳥を食べるのはおかしい」という薫のセリフがある。おもしろい。性奴隷として孤独な老人の脳内で作られた薫は、だが、自分を作った宿主を批判しているわけだ。と、死者の走馬灯としての「伊豆の踊り子」に言及したが、演者に言及すると、内藤洋子はおでこが丸くて可愛いし、黒沢年雄はかなり老けて見えたものの、俳優としてしっかりとした仕事をしていた。

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